文責:佐藤 忠悦(NPO法人白瀬南極探検100周年記念会 監事)
●再び南極へ
白瀬隊は明治44年11月19日、再びシドニーから南極に向かいます。ソリ犬も山辺安之助の友人である樺太アイヌの橋村弥八が付き添って送り届けてくれました。この他にも樺太の富内や敷香のアイヌの人たちは物心両面において支援してくれたのです。
南極に到達するには、吼(ほ)える40度、怒れる50度といわれる暴風圏を通らなければなりません。野村船長はじめ船員たちは勇猛果敢にこの暴風圏を乗り越えました。野村船長は時には神仏に祈り、時には大波に向って「さがれ、さがれ」と叫んでいたと後に白瀬は語っています。
●南極へ上陸
明治45年1月12日開南丸は鯨湾に到達し、16日にアムンセンの帰還を待つ「フラム号」に遭遇しております。
アムンセンは前年の12月14日、人類初の極点到達に成功し、帰途に就いていました。
17日に野村船長と三宅隊員が「フラム号」を表敬訪問。この日スコット隊(5人)が極点に到達しますが、極点にはノルウェーの国旗が翻っていました。スコット隊にとって失意と落胆の極点到達でした。そして帰路全員が遭難死するという最悪の旅となったのです。
フラム号を訪問した野村船長と三宅幸彦隊員は堅牢な船体、整った設備を見てびっくりして帰ってきます。
翌18日、「フラム号」のニールセン船長と士官が答礼に「開南丸」を訪れますが、あまりにも小さく貧弱なのに驚いています。一方は「フラム号」の優秀さに驚き、一方は「開南丸」の貧弱さに驚くという皮肉な双方の訪問でありました。
そしてニールセン船長は「こんな小さな船で、よくここまでやってこられたものだ、自分たちは南極どころか途中までさえおぼつかなかったろう」と開南丸の勇気と優れた航海術に賞賛の言葉を送っています。
また、三宅隊員は得意の画才を生かし、南極海の怒涛や氷海、ペンギンなどの動物、探検隊の活動を描いた、21点の水墨画を残しております。写真技術が発達していない当時としては、白瀬隊を知る上に貴重な資料として、今に伝えています。
●突 進 隊
白瀬は1月17日、18日とベースキャンプを設営。19日に突進隊5名を結成して20日に極点に向けて2台の犬ゾリで出発しますが、猛烈なブリザードと凹凸の激しい雪面(サシツルギ)に犬ゾリは難行苦行の連続でした。
宿泊は小さなテント一張りしかなく、それには白瀬、武田、三井所の三人が入れば精いっぱいでアイヌ隊員の二人は積荷の橇を垣根にし、毛皮の防寒着を着たままの野宿でした。
山辺安之助は著書『あいぬ物語』の中で「朝起きると自分たちの体の上に、沢山の雪が降り積もっていた」と記しています。
26日、三井所衛生部長が食料の残り少ないことを白瀬に告げます。また、隊員の疲労もピークに達していました。
ベースキャンプを出発してから8日目の明治45年1月28日、白瀬はここを最終地点と決め日章旗を立てて「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名し日本領土であることを宣言します。
この大和雪原はアメリカのバード少将の勧告もあり「日本領土大和雪原」として昭和8年世界地理学会から公認されたのですが、南極探検に理解も関心もなく、何の援助もしなかった当時の日本政府はそれを宣言しようとしませんでした。
それどころかサンフランシスコ講和条約では南極の権益も、将来の請求権も放棄してしまったのです。
「日本国は、日本国民の活動に由来するか、または他に由来するかを問わず、南極地域の何れの部分に対する権原、またはいずれの部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する」という条項が含まれているのを見て、日本側はその意味するところがよく分からなかったという話さえあります。
白瀬矗は1月28日の日記にこう記しています。「南緯80度05分、西経156度37分に至るや、一歩も進むあたわず。進まんか、死するのみ。否、死は兼ねて期せるところ。敢え(あ)て恐れざれども使命は死より重し。死して命(めい)を果たすを得ず。我は泣いて使命のために、この上の行進を中止する」
そして全員死亡した場合のことを考え「死は努力の終局ではあるが、責任の終局ではない。日本南極探検隊が極点に至らずして南極大陸のどこかで死んだと伝えられたらならば、世界はいかに我々を見るであろう。恐らく国家的恥辱となるに相違ない」と述べ、国際的に日本の国自体が非難されることを心配しています。白瀬の、この探検を無にしないという強い責任感の表れであろうと思います。
●帰 路
帰りは急ぎに急ぎました。往路の8日間をわずか3日間で基地に戻っています。南極の282kmを3日間で走り抜いた犬ゾリは今だかつてありません。それは食料が底を突き、残るはわずかのビスケットだけだったからです。そのビスケットさえもアイヌ隊員山辺(やまのべ)は犬たちに分け与えています。
2月2日、鯨湾に白瀬たちを迎えにきた開南丸はボートを降ろしますが、南極特有のブリザードと、目まぐるしく変化する流氷に阻まれて接岸に難航します。隊員を収容するのが精いっぱいでした。
そして犠牲になったのが20頭のカラフト犬です。
「氷の上で悲しい声で鳴きながら船を追いかけて来る犬たちを見て泣かない者はなかった」と犬係りの花守は述べています。まさに後ろ髪を引かれる思いだったに違いありません。
後年(こうねん)、装備の整った南極観測船「宗谷」や「ふじ」でさえ、氷海に閉じ込められてソ連の「オビ号」に曳航されたり、第1次越冬隊が悪天候のため15頭のカラフト犬を置き去りにしたことを思えば、わずか204トンの木造船「開南丸」が、猛烈なブリザードと流氷が迫り来る氷の海を脱出するのに如何に必死であったかが想像できると思います。
2月4日、ようやく氷海から脱出し危機を逃れますが、日夜気の許せない氷海の中で隊員、船員とも疲労は極度に達していました。
探検は初期の目的は達しというものの隊員の中には不満の声も少なからずあったといいます。白瀬にしても心残りであったに違いありません。すべて準備の立ち遅れと資金不足による退去でありました。
明治45年(1912)6月20日、開南丸は1年7カ月、4万800kmの大航海を終えて一人の死傷者も出さずに無事芝浦に帰還します。
アムンセンは北極海を縦横無尽に探検した経験豊かな探検家です。スコットは2度目の南極点挑戦でした。それに比べ白瀬隊は極地には全くの未経験で、アムンセン、スコット隊が国の援助を受け、国の威信をかけた隊であったのに対し、白瀬隊は国からの援助は全くなく国民の善意による、いわば民間の探検隊でありました。
ノルウェーの極地研究家イワール、ハムレ氏は「極地に全く未経験であった白瀬中尉の探検はすべての探検史上の一新機軸をなす大冒険であった。極点に到達するには10度不足であることなど問題ではない。極地航路に慣れたフラム号ですら開南丸の冒険の半分も体験していないだろう」と述べ、航海技術の優秀さをイギリス王立地理学会誌(geographicaljournal)に載せ、白瀬隊の苦難と勇敢さをたたえています。
また、後援会では探検の一部始終を「南極記」としてまとめていますが、後の日本の南極観測に大いに役立ったことは言うまでもありません。
しかし、探検後の白瀬を待っていたのは、国民栄誉賞でも叙勲でもありませんでした。後援会は解散したため、当時の金額にして推定4万円。 今の金額にすると1億5000万円~2億円の負債を白瀬は背負うことになるのです。
自宅は勿論のこと軍刀、軍服まで売り払い、愛娘の武子を伴い日本は勿論のこと台湾、朝鮮までも借金返済のための講演行脚に出かけなければなりませんでした。南極の極寒にも増さる厳しくつらい旅だったにちがいありません。
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