(3)出航~一度目の挑戦

文責:佐藤 忠悦(NPO法人白瀬南極探検100周年記念会 監事)


●芝浦を出航

 白瀬は当初8月の出航を予定していましたが、探検船が決まらず、延期になっていました。第二報效丸を補強し、18馬力の補助エンジンを搭載、東郷平八郎海軍大将が「開南丸」と命名し、三宅雪領博士が南十字星を象った探検旗を翻して東京芝浦を出航したのは、明治43年11月29日でした。

 大隈伯爵は前途を祝し「百発の空砲は、一発の実弾に如かず」と白瀬隊を励ましています。

 この時、開南丸をボートで見送った早稲田の学生がいました。後の文部大臣松村謙三です。

 地球観測年の始まる2年前(昭和30年)南極観測の話が外国の関係者からあったとき、東大総長茅誠司が大蔵省に資金の援助を打診すると、けんもほろろに断られるのですが、時の文部大臣松村謙三は国民の精神高揚を図るには絶好の事業であると理解を示し、南極観測事業の参画に大きな原動力となったのです。

 松村の胸に、若き日(早稲田の学生時代)に開南丸を見送った熱い思いがよみがえったのかもしれません。早稲田出身の松村が大隅伯爵の意志を継承したと言ってもよいでしょう。

 開南丸は2月8日、ニュージーランド、ウエリントン港に入港し、食糧、石炭、飲料水を補給します。

 2月11日、ウエリントンを出港した開南丸が南極海に到達したときはもう冬の季節に入っていました。海は凍結し上陸はできなかったのです。上陸できたとしても極点への走行は不可能でした。 というのはソリ犬のほとんどを赤道直下の灼熱とサナダ虫の寄生虫によって失っていたからです。

 やむなくオーストラリアのシドニーに引き返し再起を図りますが、この頃スコット、アムンセンはすでに南極大陸に上陸し着々と極点踏破への準備を進めていました。


●シドニーのキャンプ(明治44年5月~44年11月)

 開南丸はシドニーのパースリベイという小さな湾に停泊。当時のオーストラリアは白豪主義をとり、有色人種に対する排斥運動が高まっていました。そういうこともあって地元の「サン」という新聞は「こんなちっぽけな船で南極に行けるはずがない。南極探検に名を借りた軍事スパイである。上陸を拒否し退去を勧告するのが妥当」などと報ずる始末でした。

 このときの窮地を救ってくれたのがシドニー大学のエッジワース、ディービット博士と三宅幸彦です。ディービット博士は1909年1月、シャクルトン率いるイギリス隊のダグラスモーソンと共に南磁極に到達した地質学者で「彼ら日本人は東洋から千里の波濤を乗り越えてきた勇気ある探検隊である」と擁護してくれたのです。そればかりか彼の体験を基に白瀬にいろいろなアドバイスをしてくれました。

 そして三宅幸彦です。三宅は明治42年からオークランドの貿易会社に勤めていましたが、44年からシドニーの日本商社に移り住んでいました。そこへ開南丸がシドニーのパースリベィに停泊しているのを聞き、日本が懐かしく、邦人に会いたくて駆けつけたといっています。三宅との出会いは白瀬にとってもどんなにか心強かったことでしょう。

 何しろ白瀬隊には満足に英語を話せる者がおらなかったため、買い物するにもひと苦労だったと言います。

 三宅は語学力を生かして白瀬隊に対する誤解や偏見の解消のため奔走しました。その甲斐あってシドニーの人たちはキャンプ地を訪れ、お菓子や果物、花束などを持参し訪れるようになりました。三宅はこれをきっかけに、開南丸の運転士見習いとして隊員に加わります。

 白瀬隊のシドニーのキャンプ生活は困窮を極めていました。その苦労を事務長の島義武は次のように述べています。

 「内地に帰った船長からは久しく送金もなく、それでも文明国民たる品性を保たねばならぬ必要上、隊員は氷海突破以上の苦労を強いられた。手分けして連日在留邦人の商社を訪ね、20円、30円の義捐を仰ぎ20余人の糊口をしのぐ惨めさ。垢(あか)にそまった下着のため外人の面会を謝絶したり、筆舌につくせない困苦欠乏と戦いながら再挙を楽しみに200余日をシドニー郊外の一部に、天幕生活をした」


●後援会の苦悩

 また後援会長大隈伯爵は「尚奮え」といったものの資金調達に苦労しておりました。再度国に対し補助金の申請をするのですが、政府はこれを拒否しています。それどころか、白人の前で日本の恥をさらすようなものだから早急に帰国せよと促したといいます。

 当時の外務大臣小村寿太郎はオーストラリアの齋藤総領事対し「白瀬らは日本政府とは何ら関わりない。したがって便宜を図る必要はない」という暗号文を打電しております。

 小村寿太郎は明治の優れた外務大臣ではありましたが、白瀬の南極探検には冷たかったことがうかがわれます。むしろ足を引っ張っていたといってもいいでしょう。

 イギリスと日本は同じ島国でありながら、イギリスは常に目を海の彼方に向けていたのに対し、日本は島の内側しか見ていなかった。その伝統の差が白瀬とスコットの違いとなって現れたといってもよいでしょうか。

 また、当時の政府は長州、薩摩の藩閥内閣で、首班の桂太郎は長州人、その長州藩閥の長老が山県有朋、山県と大隈はいわば政敵(犬猿の仲)の関係であったということも無視できません。

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