(1)誕生~千島越冬体験

文責:佐藤 忠悦(NPO法人白瀬南極探検100周年記念会 監事)



 白瀬矗は1861(文久元)年、秋田県金浦町(現にかほ市)の浄土真宗のお寺、「浄蓮寺」の第13世住職知道、マキエの長男として生まれ、幼名を知教といいました。

 この知教少年、狐を生け捕ろうとしてシッポをもぎとったり、お寺の本堂の屋根にひっかかった凧をとろうとして転落し気絶したり、夏、沖に停泊している北前船の船底を潜りぬけようとして失敗し九死に一生を得(う)るというような手に負えない腕白坊主で、いつも母親をハラハラさせている子どもでした。

 知教は8才のとき、蘭学者である佐々木節斎という先生の寺子屋に入ります。

 11歳の時、知教は佐々木節斎から「知教、お前はここではガキ大将で威張っているが、世界を見渡せば勇気のある立派な人たちが沢山いる」そういってコロンブスやマゼラン、それに北極海探検で有名なジョン・フランクリンの話を聞かせます。白瀬はそれを聞いて「西洋人にできて日本人にできないわけがない」と佐々木節斎の話が白瀬を極地探検に駆り立てるきっかけとなったのです。この時、節斎は北極探検の心構えとして五つの戒めを言い渡しました。

一、酒をのむな

二、煙草を吸うな

三、お湯を飲むな

四、お茶を飲むな

五、寒中でも火にあたるな


 白瀬はこの戒めを生涯守り通したといいますから、目的に向って努力する意志の強さを表しています。

 知教は長男ですから僧侶になってお寺を継がなければなりません。

 しかし、探検家になるには軍隊に入るのが一番という、佐々木節斎の教えに従い、お寺を弟の知行に譲り、明治12年(1879)18歳の時、東京日比谷にあった陸軍教導団騎兵科に入団し軍人になります。軍隊に入って自から知教を「矗」と改名します。矗とは直立する様という意味ですが、この改名はお寺の跡継ぎを放棄することを意味し、北極探検に対する思いを新たに、不退転の決意を示したものと思います。

 つまり、直は直角に通じ、直角は90度、90度は極点、この90度は矗の極点に対する深い思い入れを含んだものと言ってよいでしょう。


●児玉源太郎との出会い

 白瀬の陸軍生活は13年間(明治12年9月~25年10月)に及びますが、大きな示唆を受けたのが児玉源太郎(当時陸軍少将、後に大将)との遭遇でした。

 明治23年の秋、仙台の野外演習で偶然に出会ったのです。

 児玉に自分は将来北極探検を志していることを話すと、児玉は北極に行くのであれば、その前に千島やカラフトの極寒の地を体験し、体を鍛え、経験を積んで、探検家として世間から認められることが先決だと諭されます。

 そして陰ながら白瀬の探検に支援することを約束したのでした。


●投書事件

 児玉将軍に会った翌年、白瀬は大きな事件を起こしています。当時陸軍では「陸軍武官結婚条例」というものがあって、将校(少尉以上)や下士官、准士官が結婚するには一定の保証金を陸軍省に納めなければなりませんでした。

 それが大金であったため結婚できない将校や下士官が沢山おりました。当時こんな歌がありました。

 「貧乏少尉にやりくり中尉、どうやら暮らせるやっとこ大尉」そこで白瀬はこの条例の廃止を一兵卒という匿名で兵事新聞に投書します。それが大きな問題となり、矗の所属する第二師団に禁足令が出されるまでになり、とうとう白瀬は「あの投書は自分であります」と名乗り出ます。

 司令部では剛直で有能な特務曹長であっただけに処分に苦慮しますが、結果は「予備役編入を命ず」でありました。

 矗の性格は、理不尽のものについては、徹底的に抗議する一本義なところがありました。


●千島探険

 自由の身になった白瀬は児玉将軍に進められた千島探検を企てますが、当時、海軍の退役軍人で組織する「報效義会」を率いる海軍大尉郡司成(しげ)忠(ただ)が大規模な千島探検を計画していることを聞き一隊員として加わります。

 明治26年8月31日、千島列島の最北端占守(しゅむしゅ)島に上陸し、周辺の島の調査や密猟などの監視にあたりますが、島での生活は厳しい寒さとの戦いでした。冬になると寒暖計の水銀が寒さのため凝結して動かなくなることもしばしばあったといいます。それに新鮮な野菜の欠乏は壊血病を招き隊員を苦しめます。

 翌27年7月、郡司大尉は父親が迎えにきて、来年の春には迎えに来ることを約束し、内地へ帰ります。

 後を託されたのが白瀬以下6名の隊員でした。


●占守島の生活

 白瀬たちの占守島の生活は食糧の確保と寒さとの闘いでした。翌年の(明治28年)3月には食料も乏しくなり、体力は衰弱し、6人のうち次から次へ壊血病で亡くなり、その遺体の傍で生活するという悲惨な日々が続ききます。5月には白瀬と2人の隊員だけとなりました。

 皮肉にも座礁した密猟船から食料を分けてもらい助けられるのですが、密漁船の船長は白瀬たちの穴居生活を見て、これでも人間として生きていけるのかと思うほど悲惨なものでした。

 白瀬が家族の居る仙台に帰ったのは日清戦争の終わった明治28年の秋(10月)。実家の浄蓮寺では死亡したものと思い、妻ヤスに子どもは寺の方で引き取るから貴女は再婚しなさいと、勧めたそうですが、「私は子どもをしっかり育て夫を待ちます」と言い切ったそうです。明治の女性の強さを感じさせます。白瀬の探検を支えたのは良妻賢母のヤスの存在を欠かすことはできません。陰の功労者と言ってもよいでしょう。


●北極から南極へ

 白瀬は前に述べたように、北極探検を目指しておりました。ところが明治42年9月アメリカのピアリーが北極点踏破に成功したというニュースが飛び込んできます。

 これまで北極探検を志して体を鍛え、佐々木節斎の五訓を守り、郡司大尉の千島探検にも加わり極寒の経験を積み、いざこれからだという矢先であっただけに白瀬にとって大きなショックでした。しばらくは茫然自失の日々が続いたといいます。

 気を取り直した白瀬は、「北極がダメなら南極がある」文字通り目標を180度転換し南極を目指すことにします。

 飽くなき極地への挑戦です。白瀬は48歳になっていました。当時の平均寿命が50歳そこそこと考えると、旺盛な精神力に驚かされます。

 探検家の要素である強靭な体力と精神力、それに負けず嫌いの性格は少なからず、両親から受け継いだにしろ、それを育てた環境を無視することはできません。

 白瀬の生まれ育った当時の金浦は、東北の寂しい寒村そのものでした。特に冬の日本海は怒涛逆巻き、波の花が飛び散る厳しい光景が見られます。

 白瀬は自叙伝の中で「前には日本海の怒涛を聞き、後ろに狐や狼の声を聞きながら育てられた私は、いつの間にか物に動ぜぬ気性と艱難に打ち勝つ意志の強さを授けられた」と言っております。

 また「自分は、人が鍬や鎌で雑草を切り揃えた跡を、何の苦労もなく坦々として行くのは大嫌いだ。蛇が出ようが、熊が出ようが、前人未到(ぜんじんみとう)の堺(さかい)を跋渉(ばっしょう)したい」

 白瀬の探検家としての素地はこのようなところにあったといってもよいでしょう。また寺子屋の先生佐々木節斎の話に刺激されたことも一因であったことは言うまでもありません。


●明治という時代

 そして何といっても、明治という時代です。明治維新はすべてを一新し、封建時代の鬱積したエネルギーが国運(日清、日露の戦勝)の上昇とともに海外へ飛び出そうとしていました。

 明治は日本の青春時代といわれるように、富国強兵を旗印に欧米に追い付け、追い越せと、政治家は国家意識に燃え、軍人は自国を守るために命がけでした。

 そして何よりも、青年たちは将来に向かって大望を抱いていた時代であります。明治維新を契機に多くの若者が海外へ留学生として、あるいは移民として羽ばたいていきました。

 司馬遼太郎の言を借りれば、国民一人一人の精神が外部からの強制ではなく、型にはまった教育の結果でもなく、それぞれが、感じるところに従って自由に躍動した時代であり、日清戦争から日露戦争までの10年間は、日本ほど奇跡を演じた民族は類がないと述べています。

 明治の3大壮挙といわれる郡司大尉の千島探検、福島中佐のシベリア単騎横断、そして白瀬中尉の南極探検は明治という時代を象徴する表れといってもよいでしょう。

 また、当時の世界を見渡せば欧米、特にイギリス、フランス、ロシア、スペイン、アメリカといった列強が武力によってアフリカ、アジア、南米などの弱小国を侵略し、植民地化する時代でありました。

 明治8年の樺太千島交換条約もロシアの武力に屈した不平等な条約であったことを思えば、他人事ではありませんでした。


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